みつぞういん
文明元年(1469年)の創建で、無量寿院末の中本寺である。開山は法印永海で紀州の出身であり、高野山明王院住職の永尊法印に従って出家得度した。この時26歳であった。当時谷古田領原村と称していた現在地に一宇を開き海寿山満福寺密蔵院と号した。その後25ヶ年住職であったが明応元年(1493年)10月16日、60歳で入寂。第2世法印永伝の時、享保3年(1719年)焔焼した。この時永伝と後任住職の契約があった第3世法印永真は高野山に登領していたが、この事のため同4年帰山して住職となり、後に客殿を建立した。第10世法印永実の時、正保元年(1644年)7月4日夜焔焼、同3年3月客殿建立。慶安3年(1651年)再度焔焼。この時本尊東照宮(家康)、台徳院(秀忠)、大猷院(家光)3代より御朱印状(寺領11石)を焼失した。第11世法印永智の時、客殿、本堂、庫裡を建立した。明治19年第30世三池照鳳大僧正(後、成田山新勝寺の住職となった)により島津家江戸屋敷の門を山門として移築したと伝えられている。他方、開山法印永海を中興開山とする説によれば、当寺は平将門の開基と伝えられている。本尊地蔵菩薩は、将門が上洛する途中、守護佛であったのを当寺に残し置いたという。当寺はかつて、21の下寺を持ち11石の御朱印を下賜された10万石の格式を持った寺であったという。本堂の名を摩尼殿といい、扁額を掲げ、正面にある宮殿に本尊が安置されているが、この宮殿は天保7年(1837年)に茂長甚佐によって奉納されたものである。本尊については先の火災に折、顔と胸部は焔焼をまぬがれ、昭和53年3月、東京国立博物館美術課彫刻室長の佐藤昭夫の鑑定により、顔、胸部を除いた仏体は江戸時代初期に修復されたもので、本体は平安藤原時代の作であると鑑定された。