MENU

『空海絵伝』 <お大師さまの生涯 絵と解説>

制 作 埼玉第一教区布教師会
文章解説 元山公寿
イラスト koyasa

捨身誓願 しゃしんせいがん

弘法大師空海は、宝亀五年六月十五日に讃岐国多度郡屏風ヶ浦に誕生されました。幼名を真魚といい、インドから聖人が飛んで懐中に入った夢を両親が見たところ、大師が誕生したと伝えられます。そのため、幼い頃から仏教に親しんでおられ、泥で仏像を造り、それを祠に祀って礼拝するなどしていたといわれています。そんなある日、六七歳の頃、自分が将来、仏教を弘め、人々を導く身となることができるのかを思い悩み、もし、それが叶わないのなら仏菩薩に自らの命を捧げようと、高い峰から身を投げてしまいました。すると、どこからともなく天女が現れて、空中でその身体を受け止め、救い上げてくれました。そのため、この峰は、この後、捨身が嶽と呼ばれるようになりました。

明星入口 みょうじょうにゅうく

その後、大師は、母方の伯父の阿刀大足について九経三史という中国の経書や史書を学びました。大足は、大師の明敏さに驚き、文学の道で身を立たせようとして、十八歳で大師を大学に入れました。大師も、大足の期待に応えて、学業に励んでいましたが、ある日、ある修行者に出会い、虚空蔵求聞持法を授けられたことから、仏教への想いを抑えきれず、生まれ故郷の四国の山々を廻って、各地で求聞持法を修すようになりました。そのような中で、土佐の室戸岬で修行している時に、虚空蔵菩薩の化身である明星が、大師の口に飛び込みました。この時の体験を、後に大師は、「谷、響きを惜しまず、明星、来影す」と綴っています。その明星を、大師が、海に向かって吐き出すと、その光は海に沈んで、今に至るまで、輝き続けているといいます。

釈尊涌出 しゃくそんゆしゅつ

大師は、その後、ますます仏教に傾倒して、四国の山々を廻って、修行に精進していました。太龍嶽では虚空蔵菩薩の宝剣が飛来するなど、さまざまな奇瑞があったといいます。そうした中で、故郷の屏風ヶ浦で修行していると、善通寺五岳山といわれる山々の頂きにお釈迦様が現れました。大師は、感激して、お釈迦さまを礼拝し、そのお姿を自ら彫られたといいます。その尊像は、現在、出釈迦寺のご本尊として祀られており、お釈迦様の現れた山は、我拝師山と呼ばれるようになりました。この山には、捨身が嶽もあり、ある伝説では、お釈迦さまが現れたのは、大師が身を投じて天女に救い上げられたときともいわれ、後に大師が、この山で修行しているときに、そのときのことを思い出して、お釈迦さまの姿を刻んだといわれてもいます。

久米感経 くめかんきょう

こうした体験を重ねることで、大師は、いよいよ仏教に身を投じようと決意し、『三教指帰』を著すことで出家を表明します。そこで、大師は、修行を続けながら、さまざまな仏典をひもといて、自らが求めるべきものをさらに求め続けました。ですが、仏典では、さまざまな教えが説かれており、どれが真に勝れた教えであるのか、なかなか見出すことができません。そこで、大師は仏前で、「私に不二の教えをお示し下さい」と祈ったところ、夢の中で、「あなたの求めるものが大和の久米寺の東塔にある」とのお告げがあって、喜んで、そこに向かいました。そうすると、東塔の柱に籠められている大日経を感得し、それを繙いてみると、師に従って学ぶ必要があり、日本には、その師がいないことが分かって、入唐を決意したといいます。久米寺の伝説によれば、この大日経は、その翻訳者の善無畏三蔵が日本にやって来たときに、まだ密教を弘める機縁が熟していないと感じて、封じ籠めたものだといいます。

入唐求法 にっとうぐほう

こうして入唐を志した大師は、勅許を得て、ついに延暦二十三年に遣唐使藤原賀能卿や橘逸勢らとともに、第一船に乗って、平戸の松浦から唐に向けて船出しました。奇しくも、このとき、第二船には、伝教大師最澄が乗船していました。船団は、嵐に巻き込まれ、散り散りになり、第三第四船は難破し、伝教大師の乗る第二船が先に明州に着き、大師の乗る第一船は、南に流されて、ようやくのことで福州に到達しました。ですが、福州の長官は、賀能卿が再三にわたって文章を送ったにもかかわらず、遣唐使であることを信じません。そこで、賀能卿が大師に代筆を頼んで、長官に送ったところ、その文章の見事さに、長官の疑いが晴れ、無事に入国が許可されました。

恵果受法 けいかじゅほう

入国を果たした大師は、早速、長安へ向かいました。長安に着いた賀能卿たちは、先に到着していた第二船の遣唐副使らと合流します。大師は、西明寺に住して、いろいろな師を訪ねて、ひたすら仏法を求め続けていました。そのような折、ついに青龍寺の恵果和尚の名を聞き、西明寺にいた数人の僧と連れだって、恵果和尚のもとに向かいました。恵果和尚は、大師を見ると、すぐに「あなたが来ていることを知って、待っていました。私の報命も尽きようとしています。早速、あなたに灌頂を授けましょう」と言って、六月に胎蔵法、七月に金剛界、八月に阿闍梨位の灌頂と、立て続けに密教の教えのすべてを大師に授けました。そして、恵果和尚は、大師に、「あなたに、すべての法を伝えました。早く国に帰って、この教えを流布し、人々の福を増しなさい」と言い遺して、まるで大師に法を授けるのを待っていたかのように、十二月十五日に入滅されてしまいました。大師は、弟子を代表して、恵果和尚に碑文を捧げ、その徳を顕彰しました。

投擲三鈷 とうてきさんこ

大師は、留学僧として二十年の間、止まる必要があったものの、恵果和尚の命に従って、帰国を決め、大同元年八月に明州で、帰りの船を待っていました。そのとき、大師は、自らが学んだ密教相応の地があるなら、そこまで飛んでいくように誓願して、三鈷杵を日本に向かって投じました。すると、その三鈷杵は、高く飛び上がって雲の中に消えてしまいました。この三鈷杵は、後に、大師が、修禅の道場を探して、高野明神に導かれ、高野山に入ったときに、松の枝に掛かって、金色に輝いているのを見つけ、高野山が密教相応の地であることを確信したと言われています。この松の木が、現在、高野山の御影堂の前にある三鈷の松です。

清涼成仏 せいりょうじょうぶつ

二十年いなくてはならない留学僧でありながら、わずか二年ほどで帰国した大師は、しばらく太宰府に留められ、そこで請来した経論や仏具、曼荼羅などの目録を朝廷に提出しました。それを見た伝教大師の勧めもあって、朝廷は、上京を認め、高雄山寺に入って、嵯峨天皇との交流を深め、伝教大師にも金剛界、胎蔵法の灌頂を授けるなど、密教の興隆に努めました。そんなある日、朝廷は、各宗の名僧を清涼殿に集めて、それぞれの宗旨について対論させました。その中で、大師は、密教の勝れていることを説き、即身成仏の道を述べました。これに対して、各宗の僧たちは疑いを抱いたので、大師は、それを実証しようと、南方に向かって手に智拳印を結び、口に真言を唱えて、観念に住したところ、頭に五仏の宝冠を頂き、身体から金色の光を放つ大日如来の姿に身を変じました。天皇は、上席から降りて礼をなし、臣下は拝礼し、各宗の僧たちも手を合わせて随喜したと言われています。

入定留身 にゅうじょうるしん

この後、大師は、満濃池を作るなどの社会活動をするとともに、東寺を賜って、教王護国寺と名を改め、鎮護国家の道場とし、一方では、修禅の道場として高野山を開創するなどして、密教の弘通に邁進しました。そして、天長五年には、日本最初の庶民のための学校である綜芸種智院を開校され、承和元年には、宮中真言院で後七日御修法を勤修することを奏状して、翌年一月八日から始修されました。こうして、さまざまな活動を通して、密教を弘め、人々を導いてきた大師は、弟子達に遺告して、承和二年三月二十一日、ついに入定されました。大師は、弟子達によって奥の院におさめられ、弥勒菩薩の下生を待っているといいます。この後、観賢僧正のとき、延喜二十一年に弘法大師の諡号が下賜されました。観賢僧正は、弟子の淳祐とともに、奥の院の廟前で、そのことを報告し、廟窟を開いて、そのときに賜った檜皮色の御衣に更衣したといいます。このとき、弟子の淳祐には、大師のお姿は見えず、僧正に導かれて、大師のお身体に触れたところ、なお温かく、その佳い香りはいつまでも手に残っていたといわれています。